「やりたいケアを形にする!第1回」2022年8月24日、国労大阪会館(30代男性/特養勤務/ユニットリーダー)
「誰のための、何のための三大介護なのか」 方法論だけが行き交う現場で、目的を語り合ったことはあるのか。そう問うことから始まった。 やりたいケアを形にする。これでもかとわかりやすいそのタイトルから、突きつけられる命題。他の業界では当たり前のように議論がかわされる「何のための自分たちなのか」。ここを吟味したい。 サービス事業所は瞬く間に増加し、量的には拡大しているが、果たしてその質は利用者にとって満足いくものとなっているのだろうか。 残念ながらそうはなっていないことが多いのではないだろうか。特に施設サービスでは、未だに集団処遇が当たり前となり、その弊害についてなんの疑問も持っていないところがあるのではないか。 昼夜問わずベッド上でのオムツ交換を漫然と行い、そのことがいかに入居者の生きる力を奪っていくことになっているか。日課や業務をこなすことが仕事となり、その人の生活は置き去りとなっていないか。 良い介護は言葉にしにくい。それもそのはず、今まで現場で語り合う場面が圧倒的に少ないからだ。 自分が思い、それを誰かに言葉にする。そこで相手を得て初めて意味と価値が共有される。 オムツ交換のやり方ではなく、本当にこの方にオムツ交換は必要なのか。そもそも排泄ケアとは、介護とはなんなのか。現場には言葉が必要だ。 言葉にしにくい言葉を、言葉にするならこの人の右に出るものはいない。高口光子氏は時に激しく、時に穏やかに言葉を紡いでいく。 その人らしい生活とは、当たり前で普通の生活を、その人ならではの方法で、一人ひとり手作りしていく。 そのための方法論として個別ケアがあるのだという。個別ケアが目的ではない。介護職は食事排泄入浴のケアを通して体験し、お年寄りとの充実した関係を育んでいく。この関係充実こそが、人しか人を支えることができない、対人援助の仕事なのだと。 だから集団処遇を続けていてはいけないのだ。画一的に、同じような介助を同じタイミングで行うとどうなるか。お年寄りは数になる。 「オムツあと何人??」「食介2人残ってる!」「午前中にあと3人風呂入れてや!」 固有名詞はいつしか消え去り、残るのは病気や障害の特徴で分けられ、職員の都合で振り分けられていく。そして集団処遇は容易に効率化に突き進むことになる。オムツをかえるのが早い人、食介を早く済ませられる人が、優秀な職員となり、ステータスを得る。ここに介護保険法の本旨である尊厳の保持や自立支援があるだろうか。 とある施設の夕方。トイレの前に列をなす車椅子にのせられたお年寄りたち。全員の膝の上には、これからつけられるであろうオムツが置かれていた。ここにその人らしい生活が存在するはずがない。 目が見えなくなっても、身体が動かなくなっても、もうなにもわからなくなっても、ここには私の暮らしがある。生きていける。生きていってもいいんだ。私は一人ではないんだ。そう思ってもらうための僕らだろう。 あなたは一人じゃない。この一点を伝えるために僕らはあなたらしい生活を手作りしていくのだ。 そんな僕らが、携わるお年寄りのことを、ただの大勢の中の一人だと思ってんじゃねえ。 言葉にしていかなければならないのは、大切なことは言葉にならないからだ。